投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

[PR] 週払いバイト ハワイ旅行 東京の求人・転職 seo 
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。

新着順:19/81 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

形式を重視し猜疑心旺盛で近視眼的な日本人

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 7月 9日(日)14時50分56秒
  通報
   ところで、世界的にも複雑な日本の敬語は、こまやかで奥ゆかしい人間関係を規律してきた長所もありますが、今やあまりにもその複雑さ故に国際常識を大きく逸脱しているようです。敬語の「(ら)れる」には、尊敬、謙譲、可能、自発などの使用様態の区別があり、日本人の大多数が、相手の身分や境遇に応じて厳密に使い分けられなくて混乱しているようです。その結果、不必要に神経をすり減らしたり、人間関係に気まずい思いをさせている面も多発しているようです。繊細な言い回しの敬語を確実に正確に活用できれば申し分ないのですが、今や専門家ですら、敬語を厳密に理解して充分に使いこなせていないようです。

 国内だけの対応でしかも身分関係を重視してきた閉鎖的な社会であれば、敬語も正しい礼儀、道徳、倫理の規範とも結びついて、国民精神の涵養にも大きく貢献してきたものでしょう。今やその敬語の活用が乱れてきており、歪曲し曲解した道徳観すら横行しており、健全な人間関係の形成にも多大な支障を来たしているのは否めません。また日本人の馬鹿丁寧で曖昧情緒的な国民性の故か、何にでも安易に「お」を付ける習慣が蔓延しているようです。おビール、おトイレぐらいは、お茶やお酒、お車などからまだ自然だとしても、やおや、オートバイなどに無節操に「お」を付けたらどうなるのでしょう。

 目下、日本語における敬語をしっかりと教育することが大切だとは言われますが、今や国際化の下に、逆に日本人自身が非常識に成り下がっていく傾向もあります。例えば、中国に進出した現地の某日系企業の工場支配人が、中国人労働者から、「あなたは」と言われて「カーッ」と頭に来て解雇してしまったという話もあります。世界では相手を言うのに「YOU」で済むのに対し、日本語では、自分や相手を指すのに様々な表現があり、それぞれ敬語の役割も果たしているからです。自分自身でも「私、俺、おいら、自分」、相手でも「貴方様、あなた、あんた、お前、貴様」など実に豊富なものでしょう。

 一つの言葉に一つの意味しかない外国語に対し、日本語には一つの言葉に複数の意味があって奥が深いとは言いますが、一つの対象に意味内容が異なる複数の言葉があり、相手や状況に応じて使い分けるなど、非常に使い勝手が困難で複雑怪奇に出来ているようです。例えば、日本人社会では、始めに相手に年齢を尋ねることが多いのですが、これによって、相手が年下ならば、「お前、君」を用い、年上ならば「貴方、先輩」等の使い方を区別していくようです。

 この敬語に関しては、例えば、社員が社長と対話する場合でも、社長だけと対話する場合、社長の家族が同席する場合、得意先の方が同席する場合、他の従業員が同席する場合などの、様々な状況によって、社長に対する敬語や呼び方が異なるほどの神経を磨り減らされる傾向があるようです。具体的には、社長で通用する場合もあれば、社長さんと言ったり、場合によっては個人名で言ったりする場合があるようで、実にその場の雰囲気や状況に対して、適宜使い分けていかねばならないようです。これではとても外国人には理解や習得が困難なようです。
 なお、次に、先の寺嶋氏の見解も参考までに紹介しておきます。

「内のこと
日本語には、階称(言葉遣い)がある。「上と見るか、下と見るか」の判断が、人間の序列をつくる。横並びの序列判定に加わることのできる人は「内の人」である。出来ない人は「よそ者」である。日本人社会は、序列でできている。その中での個人的な「言いたいこと」は、日本語では処理に困ることが多い。それは、発言が理性判断に基づいていないからである。盲目の判断では、議論はできないからである。だから、言いたいことがあっても我慢しなければならない。不自由を常と思えば不足なし、である。
英米人の場合は、非理性・理不尽を「シェイム・オン・ユー」(Shame on you!) の一語で切り落とす。だから、議論が可能になる。」

 ところで、形式を重んじるあまりに、抑圧的で憂鬱な社会を形成し、その結果、日本人の心理と社会の空気にも反映しているものがあります。言語が国民性を反映していると言うことの事例として、日本語に無い外来語が多くあることからも、国民性の相違が容易に想像できます。例えば、誰も気付いておりませんが、残念ながら「ユーモア」に相当する適切な日本語はありません。外人が楽しそうにユーモラスに談笑している風景をよく見かけますが、他方で、日本人同士の会話には、何故かもの悲しい空虚な嫉妬や妬みの強烈な、悪い冗談ぐらいしか垣間見ることができないのも当方の錯覚でしょうか。

 英語の「ジョーク」に相当する日本語は「冗談」「冗句」でありますが、「ユーモア」に相当する日本語は「川柳」や「風流」であろうと思われますが、これは書き物などの一人の世界にはあっても、残念ながら双方向の会話の中には、全く「ユーモア」の感覚が見られないのでは無いでしょうか。これは日本人社会には底抜けに明るい笑いの「ユーモア」の感覚がなく、実に日本人の心理が曖昧模糊の中にも調和を強要するあまり、陰湿で暗い抑圧した足の引っ張り合いの社会を醸成しているものであり、嫉妬や妬みによる足の引っ張り合いで鬱屈し、抑圧され、圧迫されているとも言えるでしょう。

 そもそもジョークとユーモアの相違は誰も解明しておりませんが、当方の思うところ、前者のジョークが、他人をコケにして当該他人以外の皆を笑わせる悪質、排他、嫉妬に満ちたものであるのに対し、後者のユーモアは、自分をコケにして皆を笑わせるものであり、誰も嫉妬や妬みを感じないものでありましょう。最近は日本人社会でも、欧米流のユーモアを若干垣間見ることができるようにはなってきておりますが、往々にしてユーモアを発すれば、それをネタに悪意のジョークで茶化されることも多いようです。

 ところで日本人には、明らかに米国などの外国人と比べて、優柔不断の横並び思考から来る猜疑心や懐疑心、嫌疑心が旺盛のようです。大局的に、総合的に、また相対的に事物を把握し、推察するような能力には著しく欠如しているようです。換言すれば木を見て森を見ない国民性であり、個の自立を排斥した集団性と付和雷同型の国民性と言えるでしょうか。即ち、形式や儀式に囚われていきやすく、本質に迫れない性質を有し、真の正しい評価や理解、判断に大きく後れを取っていき易い傾向を有しているものと思います。かつての優れた日本人特有の感性や情緒も崩壊破綻して、今や無感動や無関心、無気力の極致に到達しているように思われます。

 この無感動や無関心、懐疑心や猜疑心などは、ビジネスの世界でも言えるようです。例えば、ビジネスの分野でも、米国などの外国人は、ダイレクトメールのパンフレットなどで、技術や製品に関心や興味を示して評価し、即座に購入や契約に至ることが多いようですが、日本人社会では、猜疑心旺盛で、製品の善し悪しよりも、相手の担当者の性格をよく知っていない限り、安心して判断ができないようです。また個人の能力や業績を評価するに際しても、経歴や社会的地位、財産などの形式的、姿形的な判断が優先していく場合があるようです。人物評価に際しても、「出る杭は打つ」などの格言は、実に嫉妬や妬みに囚われた国民性の反映でありましょう。米国などは、「出る杭を尊重する」という傾向が勝っていると言えるでしょう。

 表面的な個性や感情に対しても、客観的に才能や能力を正しく評価できずに、生意気だとか協調性がないとかで嫌悪し排斥したり、また誰々と一緒に食事やゴルフをしたから、年賀状をくれたからとか、同窓や同郷であるからとか、世話になったからとかの温情や情実を優先させていくために、真の意義や価値を発見できずに、真の評価にも目覚めにくい国民性を形成しているのも確かでしょう。ノーベル賞やスポーツを始め、多くの学術や技能などの分野でも、日本人社会よりも外国人社会で賞賛され評価されて、その後に仕方なく日本人が評価し始めるケースも多発しているようです。これは崇高な理念や教義に関する評価や理解、判断にも、猜疑的で懐疑的な国民性が大きく影響を及ぼしていることの示唆にもなるものでしょう。
 

》記事一覧表示

新着順:19/81 《前のページ | 次のページ》
/81