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無節操・無定見で柔軟・寛容な国民性
投稿者:
不動明王
投稿日:2006年 7月 9日(日)14時48分33秒
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編集済
日本の神社・仏閣の境内を見ると、実に、誰の何某、何万円寄付の看板やお札が林立しております。せっかくの善行も、打算や売名、利欲で帳消しになってしまうものと思いますが、何も感じないところに、どうしようもない冒涜行為、罰当たり的な心象を感じるものです。この現象を一体如何に考えたらよいのでしょうか。まさか、これを日本独自の崇高で大らかな文化や伝統で慣習とでも言うのでしょうか。
こんな宗教や信仰観は、現世御利益であり、神仏を愚弄するものでしかありません。恐らく、こんな欲呆け、売名行為は、世界のあらゆる教会や、宗教的、信仰上の神聖な場所では皆無ではないかと思います。これも、思うに、聖なるものと俗なるものとの区別も付かない、曖昧情緒性の無節操で無責任の為せるものであろうと思います。全く、信仰観や宗教観など無きに等しい国民性と言えるでしょう。
この曖昧情緒性は、また無思想で無定見な、そして近視眼的な国民性でもありますが、これは逆に見れば、明確な行動指針や基準、原理・原則が存在しないために、何とでも変容し変質する柔軟な国民性でもあります。要するに、何でも有りの急変するしなやかさ、柔らかさを有し、びっくりするほどの極端から極端へと暴走し急変する柔軟な性質を有するものです。実に無節操と柔軟性とは紙一重であり、表裏一体であるとも言えるでしょう。この柔軟性ないし無節操性は、日本人社会においては、極めて日常的に見られるものです。
例えば、よく指摘されるように、日本人はキリスト教徒でもないのに、年末にはクリスマスイブを祝ったり、そして正月には神社に参拝し、その後に仏式で墓参りを行うなど、ごく当たり前のように実施できるほど、無節操さと柔軟性とが同居しているものです。また教会で結婚式を挙げたり、その後には仏式で法事を行うなど、何の抵抗も躊躇もなく、至極当然のように実施しているものです。正に日本人の無節操性と柔軟性の典型的な事例と言えるでしょう。
またこの変節的柔軟性は、過去の歴史においても頻繁に登場するものです。例えば、幕末時の頑なな尊皇攘夷から、倒幕・開国へと急激に流れが変わって方向転換し、近代化を成し遂げたのも、柔軟性の表れでしょう。そのあまりの事態の急変に対して、朝廷を守護していた会津藩が急転直下、朝敵にさせられるなどの悲劇もありました。また、大東亜戦争時において、マスコミに乗せられて、鬼畜米英などと勇ましく戦闘状態にあった国民意識が、戦後あっという間に、マッカーサー元帥を救世主のように崇め奉っていく国民性は、柔軟性を通り越して無節操の誹りすら受けるものです。
そして日本の歴史においては、さほどの革命的政変や大虐殺の報復もなかったのも、天下の大勢や空気、流れを読む風見鶏にも通じる、要領の良い柔軟性や無節操性のたまものですが、これはある意味では、裏切りや密告を平気でやり、何ら恥とも思わない国民性にも転じるものであります。戦国時代の関ヶ原の合戦においても、加藤清正や福島正則などの豊臣恩顧の武将が数多く裏切って徳川家康に加担したり、合戦の最中でも、小早川の優柔不断による裏切りや、島津の日和見的な様子眺め、毛利の消極的な優柔不断など、実に柔軟な対応をしていることが窺えます。
かつてルース・ベネディクト女史は、『菊と刀』の中で、米国人の罪の文化と対比させて、日本人は恥の文化だと指摘しましたが、これはあまりにも、封建社会における武士の切腹や、潔く死をもって精算するという自殺の多い国民性を過大評価して、汚名や屈辱を恥と思う責任感旺盛な日本人の心情を過大に評価して美化したものと思います。確かにそういう側面もあるでしょうが、必ずしも真実の核心を突いたものとは言えないと思います。
無節操などの裏切りを恥と感じるならば、潔く自決したりすれば良いものを、何ら恥じることもなく、安易に敵に寝返ったり、密約を交わしたり、談合に明け暮れている場合もあるように思います。それに、切腹は自ら責任をとって、自ら選択した面もありますが、他方で、一方的に責任を取らされた面もあり、一概に恥じた結果だと認めるわけにはいかないようです。これは現在の政治でも、堂々と議論することなく、相手の呑む適当な条件を探り出して根回しする行動や、また責任を他になすり付けていくような狡猾な面にも、恥も外聞もない無節操な面が表れているように思います。
そして柔軟性は、特別に排除否定するものではなく、共存、共栄を図る寛大性や寛容性にも通じるものであり、融合や調和、共存を図っていく姿勢にも現れております。例えば、中国より、漢字が伝来した時にも、一律に排除するのではなく、音読みと訓読みの両方に分けて取り込むなど、実に柔軟性の最たるものと言えるでしょう。また、仏教渡来に際しても、最初のうちは摩擦もありましたが、長い歴史の過程では、神道と仏道は神仏融合で共存しており、日本は柔軟に対処してきたようです。
戦国時代の鉄砲にしても、実に迅速果敢に、これは換言すれば、長所を即座に判断して取り込んで柔軟に対応してきたものでしょう。幕末明治においても、西洋文明を漢字やカタカナを駆使して翻訳しながら、近代化を図ってきたのも柔軟な対応として評価できるものでしょう。ここは、中国や朝鮮民族が西洋文明に対する関心の度合いが極めて小さくて、その、あまりの硬直性により近代化に大きく出遅れたことと対比できるでしょう。
なお、仏教の受け入れで従来の日本古来の神道との共存、またキリスト教への関心や明治における西洋文明との同居に対して、いずれも大した抵抗もないのは、そして大東亜戦争終了後でも、占領軍の政策をさほどの反発もなく受け入れていったのも、無節操な面もさることながら、柔軟性と併せて寛容性にも通じているものでしょう。この寛容性は、実に原理や原則のない、時には信念も理念もない、何でも受け入れる柔軟な無節操さと、また混乱性や崩壊性と表裏一体であると言えるでしょう。
なお、日本には「村八分」という言葉や風習があります。これは多くの外国のように、完全に相手を敵とみなして無視し排除し抹殺すると言うものではなく、火事と葬式だけは、村人総出で協力するというものであります。即ち、村八分の二分とは火事と葬式のことであり、これだけは、どんなに憎い相手でも、わだかまりを捨てて寛大に対応するという温情的な余地を残しているものです。この寛大性の反映である温情主義は、過激な弱肉強食を嫌悪し、落ちこぼれを冷たく排除し切り捨てることなく、皆で救済するような相互のもたれ合いの集団主義を生み出してきているようにも思います。
ところで、皮肉にも、情緒的で無節操な国民性の欠点の改革に際しては、その裏返しでもある柔軟性という長所が最大限に発揮されて、大胆で破天荒な行動へと繋がっていくことを期待したいものです。これまでの日本の歴史的にも、幾多の難局を打破してきたのも、この柔軟性に他ならなかったものと思います。また国民の意志を一つにして、一蓮托生の運命共同体の意識でもって、国民総決起により改革を実践していくことにも、寛容な集団主義を発揮していけることを祈念するものです。即ち、欠点を長所に転換し得る国民性こそ日本人の柔軟性であり、正に、日本から数千年来の歴史的宗教改革も発信できる柔軟な可能性を秘めているように思います。
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